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2011年3月

2011年3月30日 (水)

滋賀県商工会議所女性会の講演会に行ってきました

京都から琵琶湖線で二駅、大津で開かれました。

会場は琵琶湖沿いのホテルで、ゆったりとした喫茶室から

琵琶湖が一望できました。

陽光が琵琶湖に燦々と降り注ぎ、のどかで美しい光景でした。

滋賀県大津といえば、かつての近江の国です。

琵琶湖沿いには小谷城、長浜城、さらには比叡山もあり、

戦国の絵巻となった土地であります。

地元の方の言葉は、京都弁に近く

女性の発音やしぐさはなかなかに優雅でした。

講演会に先立ち、皆で立ち上がり、

被災地に向けて、長い黙祷をしました。

講演会は、震災後初めてだったので、

少し力が入って長くなってしまいましたが、

みなさん一生懸命聞いてくださいました。

Photo

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2011年3月20日 (日)

大震災 多くの死を悼む

震災が起きたのが3月11日、凄惨な現場とあまりに

数多くの死の情報を知らされたからだろうか。

その翌日から、からだから元気というものが消えうせた。

人生の無情、生命のもろさ、胸が痛み、

何をする気も起らなくなった。

テレビを見るたびに、これでもかと、不幸の知らせを浴び、

ふさぎこんだ。

最初は国難に必死に見えたテレビも段々、

この災害に「慣れてしまった」匂いを感じ

リポーターやアナウンサーの姿を

見るのもいやになった。

今こそ底力を見せようなどと軽々に言える人間が

信じられなくなった。

それでもーーー被災地で生き延びた人たちには

日々の生活がある。

悲しみをこらえて地域を再建しなければ生きる場所すらない。

インフラの復旧だけで10兆はかかるだろう。

子ども手当は廃止すべき、高速道路無料化も当然廃止、

これで3兆円浮く。

残り7兆は国債を発行すればよい。

どうせ赤字まみれの国なのだから、今更気にすることもない。

復興特需も一部で起こるだろうから、

必ずしも景気を冷え込ませることにはならないと思う。

インフラはいつの日か元に戻るだろうが、

理不尽に断ち切られた生命は元に戻らない。

東北の各地は哀しみの町になるだろう。

それを癒すのは長い歳月を必要とするだろう。

それは当事者以外の人間の記憶が消えるほどの

長い時間だと思う。

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2011年3月10日 (木)

ドラッカーの「マネジメント」を読みふける

ピーター・ドラッカーの「マネジメント 課題、責任、実践」

を繰り返し読んでいる。

私は経済人ではなく、もはや組織人ですらないが、

極めて興味深い。

経済書というよりは、思想書である。

書かれている価値観は、私も似たようなことを思っているが、

言葉として断定できることがすごい。

経済という不確実なものに、揺るがぬ言葉を発することは

たいへんなことだろう。

1973年に書かれた著書だ。

すでに40年近くが経過している。

普通なら、この分野はたちまち色あせるだろうに、

普遍の真理をいくつも突いている。

気に入った言葉を要約してみる。

「企業の目的の定義は一つでしかない。

市場と顧客の創造である。

利潤の追求は条件であっても目的ではない」

「顧客は製品を買っていない。欲求の充足を買っている。

彼らにとっての価値を買っている」

ドラッカーの理念を実行しうる企業人がどのくらいいるか

分からないが、思想書としては極めて優れた書物だろう。

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2011年3月 6日 (日)

道尾秀介 直木賞受賞作「月と蟹」を読む

道尾秀介の作品は、いつもある種の不可思議さ、

奇妙なものを提示し、読後感は決して、いいものではなく、

感動などとは無縁のものだった。

だが、何故か、いつもまた読みたくなる。

今度はどんな仕掛けをしてくれるのか、

そう期待し、読み続けてきた。

「月と蟹」は今までの、推理物とは趣がだいぶ異なる。

少年世界だけで、描き切ったのはお見事。

10歳の目線で、物語を構築する自制力、構成能力、

そして病的にまで細かい描写の力。

この作家はまだ35歳。どんどん上手くなっている。

私が35歳の時はバグダッドにいた。

戦地を駆け回っていた。

リアルなら彼より遥かに体験はあるだろうが、

小説はリアルを創作する商売なのだ。

道尾秀介は神様に創造者の資格書を

もらっているのかも知れない。

あと10年後、村上春樹クラスの作家になっている気がする。

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2011年3月 2日 (水)

「愛の流刑地」 狂うことは深い

私たちは日常の幸せを何に見出しているのだろうか。

それは幸せといえるほど、

感情を揺さぶられたり、魂の充足を与えてくれているもの

だろうか。

「愛の流刑地」2007年東宝映画を見る。

正直見る前はさほどの期待もせず、

映画評もさほど高くないせいもあり、

男と女のキワモノかと思っていた。

だが見終わると、衝撃と深い余韻に身を包まれた。

傑作だった。

中年作家と人妻の破滅に向かう愛欲の日。

平凡な女が妖しく恋に狂うさまを寺島しのぶが演じ切っている。

少女のような恥じらい、貞淑な妻、

そして性の悦楽の中で天女になるまで。

大変失礼だが、容姿的に飛びぬけていない分だけ、

余計に肉体や顔の表情が現実的で、女の業の凄さを感じさせる。

愛でも、仕事でも、狂うほどに打ち込めたら幸せだろう。

本当に生きている実感を味わうならば

狂わなければならないのかもしれない。

「狂」は、生きていることを確かめるために

避けて通れない精神の昇華かもしれない。

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2011年3月 1日 (火)

「フラッシュダンス」大スターにならなかったのは何故

最近、古い映画ばかり見ている。

最近の映画は配給会社の宣伝戦に影響され、

見るとがっかりのものが多い。

歴史の中で、生き延びたものの方がいいものに出会える確率は高い。

「フラッシュダンス」を見た。

1983年に作られ世界的にヒットした。

今見ても胸が熱くなるほど秀逸な青春映画だ。

主演のジェニファー・ビールスはその眼のきらめき、

肉体の躍動感、そしてまだ10代の弾ける生命力、

どれをとっても素晴らしく、まさに大スターになる要素を

すべて兼ね備えているように見えるのである。

だが、現実は違った。

次の作品で、大コケし、スターとしての半生を歩けなかったようである。

テレビドラマのライ・トゥ・ミーに出ている。

今、47歳だ。

「イージーラーダー」のピーター・フォンダにも同じ思いを持った。

オーラを放っていた。

同作品には演技派のジャック・ニコルソンも出ていたが、

ピーター・フォンダは存在そのものが、他の俳優と違っていた。

父ヘンリーや姉ジェーンは名優であるが、

個人としての魅力は圧倒的に彼に感じた。

しかし、その後の俳優人生は思ったほど光り輝くものではなかった。

何が、スターを生むのか理屈は分からないが、

ハリウッドのこの数十年は存在感より演技力を重要視した気がする。

作家の塩野七生さんは、ロバート・デニーロやダスティ・ホフマン、

メリル・ストリープなど名優であるが、

本来脇に回る人間が主役を演じていることが問題だと指摘している。

ただ、ものは考えようかもしれない。

例え一作だけであっても、世界の人々の記憶の中に

数十年生き続けることは凄いことだとも思うのである。

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